こんにちは。
皆さん、「人格」と「霊格」は違うということ、知っていましたか?
私は同じだと思っていました。人格を上げれば当然、霊格も上がるものだと思っていました。
素晴らしい人間性を持ち、徳を積めば人格が上がり、よって霊格も上がるのだと思っていたのです。
もしかしたら、私と同じように思っている方もいらっしゃるのではないでしょうか?
なので、人の上に立つような人は人格者で、そのような優れた人は霊格も当然高いのだろうと・・・。
けれど、「人格」と「霊格」はまったく違うようです。
霊格を上げることは、人として完璧を目指すことではないのです。
桜井識子(神仏研究家)さんによると、霊格が高くなると、その人の「魂」は神仏という存在に近くなるそうです。
ここで、距離が近くなるのではなくて、その人の魂が神仏という存在のようになっていく、と言われています。
その解釈は難しいのですが、何となくぼんやりとわかります。
そこで、以前読んだ桜井さんの本で、神様が「お金を持っていて、有り余るお金から施しをするのは当たり前である」と、言われたという言葉を思い出しました。
さらに、神様は「少ない手持ちのお金から寄付をするほうがどれだけ尊いか・・・」と言われたそうです。
その説明として、手取りが15万円で、ギリギリ、あっぷあっぷしながら生きていて、それでもそこからいくらかを、たとえば被災地や恵まれない子どものために寄付をする。
自分が使おうと思っていた大事な千円を、自分が我慢してでも誰かのために寄付をする。それがどれだけ霊格を上げる行為か、わかるか、と言われたのです。
その本のことを思い出して、私はハッとしました。
そうなのです。こういったこと、人知れず誰かのために、何かのために役立つことをする。
人の上に立たなくてもできます。
人知れず良いことをすることに、意味があるのですね。
「霊格」と「人格」の違いがわかったところで、次に霊格が高くなるどうなるのかです。
生きている今は、「神仏からのアドバイス」がそのまま受け取れるようになる、ということのようです。
ただし、これは神仏の声が聞こえるようになる、ということではありません。
「魂」が、神仏からのアドバイスを受け取って、その内容を理解できるようになるそうです。
例えば、危険な目に遭うような場面では、「神仏からの警告」を魂がちゃんと受け取り、助かる、といったことです。
いつも歩く道で、その先でひったくりに遭うというようなことがある場合、魂が警告を受け取れれば、ひったくりに遭うかも?とまで予測できなくても、別の道を歩こうとします。
桜井さんはこのような場合、その警告を受け取れなければ、ご縁をくださっている神様が、本人を転ばすなどの、何かアクシデントを「時間の調整」のため、起こすと言っています。
時間を調整して、ひったくりに遭わないようにしてくれるのです。
でも、転んだら痛いですから、自分でわかれば、違う道を歩こうと思うわけです。
霊格が高くなっていくと、神仏という存在に近づき、徐々に、少しずつ、これができるようになっていくようです。
意識の上(脳)ではわからなくても、「魂」は受け取った警告やアドバイスを理解できるようになるそうです。
神様からのアドバイスや警告、受け取りたいですよね。
そのために、人格ではなくて霊格を上げようとすることがいいということです。
人と笑顔で接するようにする、人に優しくする、落ちているゴミをひとつ拾ってみる、信仰心をピュアに保つために大好きな神仏に会いに行ってみるなど、そのようなシンプルなことでいいそうです。
そういったことをコツコツと積み重ねることで、霊格は高くなるようです。(*^^*)
今日も幸せな一日となりますように!
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